聖なる夜には
キャンドルを灯して
スピリチュアルな話しを・・・
霊能力者、あるいはスピリチュアルカウンセラーと
名乗る人に対して持つイメージは
人によってかなり違います。
いかがわしい人間(職業)だと頭から否定する人
お金をとって相談を受けることに対して
神さま事だと言いながら
やっていることは詐欺ではないかと
思う方もいらっしゃいます。
そう思われても仕方がないことを
「人によっては」行っているケースもあります。
除霊と称して多額のお金を請求したり
霊感商法にまつまるトラブルも後を絶ちません。
その反面
神と繋がり、未来予知ができるというところから
霊能力者イコール教祖的存在として
崇められるケースもあります。
教祖になりたがる霊能力者もいらっしゃいます。
けれど
その人が置かれている立場や地位と
その人の才能が100%一致するものではないということ
その人が何を思って「それ」をしているのか
言葉と心が一致していないことなど
今まで幾度となく感じてきました。
あなたにとって本物の霊能力者とは、どういう人でしょうか…
幽霊やオーラが見える人でしょうか
未来予知ができる人でしょうか…
あなたにとって、尊敬に値する神主さんやお坊さんは
どういう人でしょうか…
有名な神社仏閣で奉仕されている人でしょうか…
何代も続く歴史ある社寺の後継者の方でしょうか…
ひとつの側面から考えてみます。
神社やお寺への奉納金には
そこにどんなからくりがあっても
何の疑問も持たれません。
今年一年が、おみくじに書いてある天からの
良き啓示通りに進まなくても
学業成就や病気平癒のお札やお守りに何の効果が無くても
そこに関しては何の怒りも感じませんが
霊能力者の言ったことが外れたり
ヒーリングが何の効果にもつながらなければ
詐欺だ、偽物だ、と言われてしまいます。
真剣に向き合って外れるより
適当にやっても当たること(結果が出ること)の方が
求められるのです。
昨今テレビで、お賽銭泥棒の映像がよく流されています。
盗みは法律に反する悪い行為だから
悪いことをした人を捕まえるのは「正義」との観点から
お賽銭箱に向けて監視カメラを設置し
裏で見張りながら「その瞬間」を待っています。
そして、現行を確認したら
「ドロボー!」と叫びながら駆け寄っていきます。
盗みという行為を肯定するわけではありませんが
罪を犯した人を捕まえることが正義なのか
罪を犯さないように導いてあげるのが愛なのか
神職に求められる正義とは何だろうと思いながら見ていました。
個人的には、自分の手から離れたお金(お賽銭)の
その後の流れについては
神社の収入となるのか
何か特別なことに使われるのか
考えたことはありません。
つまり関心がないからです。
ほとんどの方は、お賽銭については
同じような感覚をお持ちなのではないでしょうか。
お賽銭の由来や、神社側の見解は別にあるとして
お賽銭の使われ方に関しては
例えば、お賽銭箱は2つおいて
ひとつは神さま?神社?に対する奉納
もうひとつは助け合いの精神に基づいたものというように
困っている人にお賽銭が使われるのだとしたら
それはそれで神様の喜ばれることなのではないかと思います。
ひとつのテーマには、必ず賛否両論が生まれますので
この問題も、性善説で議論を始めれば
結論は出なくなります。
誰しも自分の言っていることこそが正義だと思っていますので
全員に共通する正解・正義を求めても、答えは出なくなります。
けれど、何日も食事をしていなかった人が
「空腹に耐えかねて、お賽銭に手を伸ばしてしまいました」と
話されていたのをニュースで見るにつけ
正義!正義!と叫べば叫ぶほど
生きにくい世の中になっていくように感じます。
貧困さゆえ、お賽銭箱から100円200円をとって
お腹を満たしたいという思い・行為を
神が罰するのだとしたら
神の説く愛とはこの世的な物資的価値観に基づいたものとなり
またそういう存在を神として求めているとするならば
私たちが求めている神というのは
ずいぶんと貧弱な存在だと思います・・・
けれど
この世では、法律に反することが悪であり
何かを選択する時には
「ましな方」を選ばざるを得ないことが多々あることも
また事実です。
自分は道徳的にふるまっていると思っていても
倫理に反していることはたくさんあります。
人道に反する行為だとわかっていても
NOと言えないことは
社会の中ではたくさん存在します。
戦争も、そういう中で行われます。
個人の道徳観の中では許されないことも
国家単位となれば敵を倒すことは許されるのです。
有名な神社仏閣に行けば
本宮からは外れた場所にある
どんな小さな祠や摂社の前にも
お賽銭箱はしっかりと設置されていて
大きな神社になればなるほど
参拝を終わることには
小銭はほとんどなくなっています。
とても不思議なことです。
全世界のカトリック教徒の最高指導者であるローマ法王は
毎週水曜日にバチカンで一般謁見を行っています。
2018年11月、壇上にいるローマ法王のもとに
1人の男の子が母親の手を振りほどき
駆け寄っていきました。
衛兵にちょっかいを出しながら、壇上を自由に動きまわります。
そのすぐ後、母親も壇上に上がり
「息子は自閉症で話すことができません」と謝罪し
連れ戻そうとしますが、法王は、
「われわれは皆、神の前で自由であるべきだ。
彼が話せるよう、神に祈りましょう」と、参列者に呼びかけ
母と子を責めることはしませんでした。
~正義の反対は別の正義~
ルシア
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