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諱(いみな)

 

 

昔は自分の本当の名前(忌み名・真名)は

むやみに人に明かさなかったと言われています。

本名はその人物の霊格と強く結びついたもので

その名を口にすると

その霊的人格を支配することもできると

考えられていたためだそうです。

悪意のある人に知られてしまっては大変ということなのでしょうね…

そのため普段は通り名(ニックネーム)を使っていたのだとか…

男性だけではなく、一部の高貴な女性を除いて

昔の女性の名前は記録にも残っていません。

(清少納言も紫式部も本名ではないので)

 

アメリカの天文学者カール・セーガンの言葉に

『私は水とカルシウムと有機物のかたまりで

100兆ほどの細胞からできている。

あなたもわたしもほとんど同じ分子でできていて、

名前だけが違っている』

というのがあります。

自分という人間が他人と違っているのは

究極的には名前だけ…ということなのかもしれません…

生まれた時から『〇〇さん』と繰り返し呼ばれ続ける名前によって

『わたし』という呪(しゅ)にかけられていくのです

 

 

新しい命を迎えました。

今はブログを書いている私の膝の上で眠っています…可愛すぎる♡

 

子供の名前を考えるときもそうでしたが

名づけに関しては色々と考えます。

つまらない名前をつけてつまらない人生にならないようにと

わが子の時も(それなりに)悩みました。

人間とAIをわけるものは、一般的には『意識』と言われますが

感情移入できる能力でもあるようです。

例えば名前をつけることでその人やものを特定できるので

感情移入も容易になります。

家畜にも名前をつけたら(ベイブという名のブタがいましたが)

簡単には屠殺などできません。

なのでちゃんと名前で呼ぶことが大切なのです。

心をつくる時間

 

 

人生では1+1 が 2 にならない

さまざまな状況が複雑に絡み合っています。

そして選択肢がたくさんある中では

何かにつまづくと

「自分にはもっとふさわしい生き方があるはず」

なんて考えてしまいがちです。

成功と失敗の確率にはネガティブバイアスがかかるため

どうしても失敗と思える確率の方が高まるのだそうです。

それに、思い入れが強ければ強いほど

ダメージもそれ相応に受けますから。

そんな時よく言われるのが

結果ではなくプロセスに価値があるのだと…

でも99%無駄な努力をしていることだって実際のところはあって

でもその無駄な努力をしている過程で心がつくりあげられていくのだとしたら

色々な努力を積み重ね

スランプだったり、七転八倒する時を経験するのは

目的を達成する以上に大切なことなのかもしれない…

 

いつも上手くいくとは限らない人生では

ダメだった時の結末を受け入れる覚悟と

その上で進む(或いは退く)勇気が必要で

とは言え、24時間365日そんな悲壮な態度でいられるはずもなく

それでも最終的には

「徹しきれぬ者、それは弱き者」ということなのかもしれませんね。

 

人間、前を向いてさえいればどこまでも進めます。

「もうダメだ…」と思ったら、

鏡の前に立って自分の顔を眺めてみましょう。

まだ笑えるようだったら、きっと大丈夫。

精神主義に陥いりすぎてはいけませんが

(心頭を滅却しても熱いものは熱い、そして苦手な人はやっぱり苦手…苦笑)

気持ちの持ちようは大切です。

 

 

結果を出せないと

この世界では生きていけません。

プロセスは、野球選手としてではなく

人間をつくるために必要です。

~イチロー~

本当の自分にもどる瞬間

日々少しずつの積み重ねというのは

色々なところで現れてきます

長年の努力の末やっと報われたということもあれば

少しずつのダメージがじわじわ効いてきて

崩れ落ちるという負の効果もあるかと思います。

仕事や人生において

道半ばで倒れてしまった人達に対して使われる表現でも

「あの人のラストストローは何だったのか」というのがあります。

重いわらの束を背負うロバが限界点を越えて

最後のたった1本のわらを背に乗せたときの

崩れ落ちる様子にたとえての表現ですが

これまでどんな事にも耐えてこれたのに

そんな些細なことで倒れてしまうのか…ということもあるのです。

仕事や人生のあらゆる場面でのティッピングポイントは

突然訪れるように感じます。

でもそれは、水が蒸気になったり氷になったりするように

その限界点を越えたということであって

それまでのプロセスを考えれば、本当の意味では突然はなく

突然の愛の破局といわれるものも

それまでのお互いの心に気づかなかっただけというのが

ほとんどなのかもしれません。

本当に大切なものほど、それが足りているときには

その大切さに気づかないことが多いのです。

空気や水のように…

でもいったんそれが不足したときには大変なことになります。

ある瞬間にそれが大切なものだったと気づかされるのです。

あって当たり前だったものや、居てくれて当然だった人がいなくなった時

初めてその大切さが身に染みてわかる…ということもあります。

そしてそんな時というのは

いつもは虚勢をはっていたり、ごまかしていた自分が

本当の自分に戻る瞬間なのかもしれません。

 

長男君の渡米の日が、刻一刻と近づいてきました。

今回も4年間の予定なのですが、今回はさらに厳しく

最初の2年間は日本の土を踏むことさえ原則許されておりません。

今の仕事を選んだ時

「親の死に目には会えないという覚悟を持って…」と父に言われておりましたが

きっとそれは現実になるのでしょう…

人間の幸福の形に決まった型などはなく

一緒にいることだけが重要なのではなく

それは最後に大切になるのは心の問題だからです。

 

いずれにしても、この世のすべての現象は

自分も含めて

全てかりそめなのだ…

 

 

夢かうつつか幻か

この世のことはかりそめぞ

~源氏物語~

 

 

 

 

誘い(いざない)

 

 

人間には暴力に対する

ある種の憧憬というものがあるのかもしれません

映画でも破壊や暴力を描いたシーンの方が

ワクワク・ドキドキするものですし

『征服したい』とか『ねじ伏せたい』という欲望は

暴力がその基になければ出てはこないものです。

その暴力とは何も身体的なものとは限らず、精神的なものも含まれていると思います。

色々とカモフラージュされているとはいえ

世界を動かしているのは、あるいは統制・制御しているものの根底には

こうした暴力があるのかもしれません。

例えば愛の力というと暴力とは正反対のようなイメージがありますが

力の行使という意味では、暴力的な性質があるとも言えるかもしれません。

あなたのためを思って…

あなたの幸せのため…という理由で

相手の気持ちを置き去りにするような愛の使い方をしたことはないでしょうか…

(昨今では「しつけ」という名の虐待もよく聞きます)

 

民主主義というのも結局は、多数決の原理に基づく数の(暴)力の面もあり

結局は多数派の意見で動いていくのです。

相手を貶めるために手段を選ばなければ、徒党を組むことから始まり

欺瞞的になるとどんな手段にでも出るようになってしまうのかもしれません。

何が本当に人間の心を魅了するものなのかは

永遠の問題なのでしょうね。

『かっこよさ』『優しさ』にも色々ありますし

人は幸福とか公平が何よりも好きな反面、心の一部ではそうじゃない要素も求めていて

家柄の違いから不当に引き裂かれるような悲恋も好きなのですから…

 

さて、次男君は大学のサークル仲間と

今朝6時過ぎにスキーに出かけていきました。

それも、3時間前の夜中の3時に

「あ!そうだ!!。スキーの用意してない!!」と急に思い出したらしく

もうそれからすったもんだの大騒ぎ・・・

ウェアーはどこにあるんだ?、手袋は?ゴーグルは?と

夜中の3時過ぎから、父と3人で荷物の詰め込み作業に追われる始末。

しまいには、スイミングのゴーグルを持ち出してきて

「もうこれでいいんじゃない?」と、次男君。

「アホか!」

ここまで来るとあきれて何も言えない。

育て方間違ったのか・・・

 

 

〜誘い(いざない)〜

あなたが何で生計を立てていようとわたしには興味はない

知りたいのはむしろ

あなたが何で胸を痛めているか

そしてあこがれとの出会いを

夢見る勇気を持っているかどうかだ

あなたが何歳だろうとわたしには興味はない

知りたいのはむしろ

あなたが愚か者に見えるのも覚悟のうえで

あえて愛を、夢を、生きるという冒険を

もとめるかどうかだ

あなたの星座が何座だろうとわたしには興味はない

知りたいのはむしろ

あなたがあなた自身の悲しみの中心に触れたかどうか

そして人生の裏切りによって心を開かれたのか

それとも縮みあがり、さらなる苦痛を恐れて

心を閉ざしてしまったのかだ

わたしの苦痛だろうと

あなたの苦痛だろうとかまわない

あなたが苦痛に耐えられるかどうか

そして苦痛を隠したり、薄めたり、とり繕ったりするために

じたばたせずにいられるのかどうか知りたい

わたしの喜びだろうと

あなたの喜びだろうとかまわない

あなたが喜びとともにいられるかどうか知りたい

あなたが野生とともに踊り、手足の先まで歓喜に満ちて

わたしたちに用心せよとか、現実的になれとか

人間の限界を思い出せなどと

警告せずにいられるかどうか知りたい

あなたの話していることが本当かどうかわたしには興味はない

知りたいのはむしろ

あなたが他人を落胆させることを恐れずに

自分に正直になれるのかどうか

そして裏切ったと非難されても耐え、自分自身の魂を裏切らずにいられるかどうかだ

あなたが誠実で、それゆえに信頼できる人間なのかどうか知りたい

きれいでない日常的なものの中に、美を見い出すことができるのかどうか

そして自分の生の源は神の存在にあると言えるのかどうか知りたい

あなたが失敗に耐え、湖の縁に立って

銀色の月の呼びかけに答えることができるのかどうか知りたい

あなたがどこに住んでいようと

どのくらい金を持っていようと

わたしには興味はない

知りたいのはむしろ、悲嘆と絶望の夜のあと

疲れ果て、骨の髄まで打ちのめされて、それでも起きあがり

子供たちのためにせねばならぬことを成し得るかどうかだ

あなたが何者なのか

どうやってここに来たのか

わたしには興味はない

知りたいのはむしろ

わたしといっしょに炎の中心に立ち、尻込みしないかどうかだ

どこで、誰といっしょに何をあなたが学んだか

わたしには興味はない

知りたいのはむしろ

ほかのすべてが崩壊したとき、何があなたを内から支えるかだ

ひとりぼっちでも平気かどうか

そして孤独なときの自分を本当に

好きかどうか知りたい

 

~オライア・マウンテン・ドリーマー~

『Invitation』

 

 

 

 

人生の航海図

毎年この時期には

今年の運勢本が本屋さんの店頭に並びます。

有名どころでは、

朱色の陰陽太極図が表紙に描かれている

高島易断本暦。

自分の一年の運勢が

一冊の本の中に書いてあるなんて

どうなんだろうと思いつつも

人生という荒波を航海していくには

自分という舟に本来備わっている能力と照らし合わせた航海図が

あった方がいいのかもしれないなんて思ってみたり…

特に長い人生の中では、

自分の力ではどうにもならないような嵐に遭遇するかもしれません。

そんな時にはまさに神にすがる思いで

一冊の本の中に書いてある文字を追ってしまうのです。

そしてそれは自分自身を納得させる為にも役立ってくれます。

運勢の良くない年に悪い事が起きれば

『 だってそういう運勢だったし… 』と言えますからね。

普段は暦などには全く無頓着でいられても

守るべきもの (家族とか) ができた時とか

自分の能力の限界を感じた時とか(世の中上には上がいるので)

特に精神的なエネルギー切れを感じた時は

それまで培ってきた経験やら知恵を総動員して

そのビハインドを補おうとするのです。

そもそも人間の本性として

何にでも因果関係があるような説明を求めたくなります。

ただ単に運が良い悪いだけでは、精神衛生上耐えられないのです。

特に悪いことに関しては

何かや誰かのせいにしないと気が済まないのです。

本来世の中の出来事は全て複雑に絡み合っていて

そんな簡単に因果関係がはっきりするものでもありません。

自然=神=真理=愛=永遠=無限………を全て理解しようなんて

肉体を着ている人間には所詮無理な話しです。

だからこそ人は祈るとも言えるのです。

 

今年の目標は決まりましたか…?

短期決戦でいくか…

長期決戦でいくか…

世の中短期決戦で決まることは案外少ないものです。

特に人生の場合は…

 

 

母と二人だけで箱根に行ってまいりました

我が家から箱根への2時間弱の移動を旅行と言えるのかはさておき

どこへも出かけず、心ゆくまで本を広げたり、パソコンを開いたり

ひたすらお部屋でまったりゆっくり

つかの間の静寂を楽しんでおりました。

そんな時には自分のプライドとの付き合い方だったり

自分のアイデンティティだったりを考えてみるのもいい。

現在から過去を振り返ると

これまで自分がしてきた善い事も、そうじゃなかったことも

今自分が置かれている状況によって過去の出来事が違って見えてくることに気づく…

つまり過去の意味は、現在の思いで決まってくるということなのだろう。

そういった意味で過去の失敗を振り返ることは

(少しは)成熟している(はずの)今の自分を感じることにつながる

貴重な時間なのかもしれない。

とは言え、思い出したくないこともたくさんあるのだけれど…

 

 

思い出というものは人間が時間に贈与できる唯一の形式であって

過ぎていった時間というものは

それを偲ぶ思慕者の心の幅によって拡大されていってとどまらない

~壇一雄~

 

 

 

紡ぐ

一年という節目が近くなると

そこにひとつの意味づけを見つけたくなります。

今年はいい年だった…とか

報われないことが多かった…とか

どんなに苦労しても最後に成就すれば

恵まれた一年だったと思えるし

反対に最後がダメだと全てが台無しで

悲しい一年に感じてしまいます。

ほとんどは楽しくて、満たされた時間だったのに

最後の最後でコケてしまうと、それまでの良いことが全て

リセットされてしまうように感じられます。

これは、行動経済学者のダニエル・カーネマンが提唱した

人の評価基準に関するピークエンドの法則と呼ばれるもので

人はほとんどの経験をピーク(最も感情が高ぶった瞬間)と

エンド(最後の印象)の度合いで判断するということを意味しています。

良いことも悪いことも両方あったはずなのに

人はなぜか悪い事の印象が強く残ります。

ハッピーエンドではなかったとしても

良いことだって本当は沢山あったかもしれません…

 

さぁ、今日から悪いことは忘れて

楽しかった事を思い出すことにしましょう。

そしてクリスマスには

あなたが愛する人

あなたを愛してくれる人と

時を過ごせることに感謝して

心の一番やわらかい部分に触れるような

かけがえのない思い出を作れますように…

 

ロマンティックな季節を過ぎると一気にお正月です。

日本人ほど一度に大集団で”幸せ” を祈る国民はいない…などと

言われる瞬間です。

 

 

新宿にて

志を同じくする仲間たちとの忘年会。

ガチガチ憑霊体質の私には

他人と深いところで共感できる時間をもつことは

無理なんじゃないかと思っていたのだけれど

皆と別れてひとり帰る道すがら

ふと頭をよぎった「一味同心」という言葉…

思わず類魂という存在を考えずにはいられなかった。

類魂というのは自分を助けてくれる人

自分に優しく接してくれる存在だけを指すのでは決してなく

むしろなんでそんなに意地悪をしてくるのかと思う相手が

実は自分に深い学びを与えてくれる魂だったりもするのです。

けれどやっぱり自分と感性が似ている相手だと

一緒にいても身構えることなくほっとできるし

話していて楽しい…

私にもそういう存在ができたこと、いてくれることに

感謝しかない…

 

 

 

前に読んだ本をあらためて読み返してみると

こんないいことが書いてあったのかと再発見することっがたびたびあって

とても嬉しい。

志を同じくする友だちが遠方からやってくるのもまた嬉しく

人生の楽しみの一つだ。

~孔子~

大人の品格

 

何でもそうだと思いますが

苦労がある分、充実するということはあるもの…

『会えない程会いたい気持ちが強くなる』

なんてことも言いますし…

けれどそうしたことを乗り越えていくというのは

言葉で言うほど簡単ではないのかもしれませんね

誰だって自分が一番大変だし

一番助けてもらいたいと思っているもの。

けれどお互いさまの精神をもつことが

大事なこともあるのではないでしょうか…

若い頃は良くも悪くも自信過剰になったり、むやみに卑屈になったりで

世の中における自分の立ち位置がわからなくなったり

無限に続くと勘違いしがちな(不幸な)人生の行く末に

途方に暮れたりするのです。

けれど時が過ぎたその後で、楽しくあるいは自慢げに語られるのは

成功談よりも失敗や苦労話しの方が多いのが世の常です。

平凡な暮らしを望み続ければ、人生が穏やかに過ぎていくという特徴はあっても

困難な中に存在するおもしろさに気づくことはないのかもしれません。

失敗や面白い体験がないのは、

それ以上に語る世界を持てないということで

話していても、延々と自慢話しだけを聞かされて

正直なところ、あまり面白くもないのです。

話しの面白い人は、苦労や危険をそれなりに負担してきている方で、

またその失敗談や苦労話をおもしろおかしく話せる人は

素敵な大人だな・・・と感じます。

 

 

許せないことがあるのは

空気や水と同じように自然なもの。

そう理解することが大切です。

最もしてはいけないのは

許せない自分を、「器の小さい人間」といつまでも悩むこと。

許せないことに出会い、それを乗り越えていくことの積み重ねで

人は成長していくのです。

伊集院静

祈りの力

 

1997年公開の

ジョディ・フォスター主演映画、『コンタクト』。

その中で全人類を代表して

異星人と最初にコンタクトする人間を選ぶ時

『私は神の存在を信じない』と言った

ジョディ・フォスター演じる女性科学者は

代表には選ばれませんでした。

全人類の94%が大切にしている神への信仰を持たない人間は

人類の代表にはなれないという事でした。

人間は、自分ではどうしようもできない状況に直面した時

神を求め、祈りを捧げたくなるものではないでしょうか…

頭でわかっていても諦めきれない

理屈を越えたところに祈りがあるのだと思います。

 

大切な人が病に倒れた時や事故に遭った時、

きっとこれは何かの間違いだと願い、

すぐ元気になる、必ず笑顔で家に帰って来てくれるはずだ思う。

やがてその希望が祈りへと変わり、どうか神様助けてください、

助けられるのはあなただけなのです・・・と祈る。

神なんか信じない、神なんかいないという人は

そういう時でも自分の大切な人が元気になりますようにとは

祈らないというのでしょうか・・・

 

次男君の手術の際、病院からホテルに帰る道で

後から追いつくからと言って、私を先に行かせた主人が

いつまでたっても現れず、心配になって引き返してみると

真冬の、日も暮れた暗闇の中、神社のお社の前で

ひとり手を合わせていた姿を見つけた時は、

心が悲しみであふれないようにするのが精一杯でした。

もう随分と昔の話しにはなりますが

こういう事を不合理と一笑に付す人は

人類の代表としてふさわしくないという事なのかもしれません・・・

 

『コンタクト』の原作者カール・セーガンは、アメリカの天文学者で

著者『コスモス』の冒頭のページに、妻のアン・ドルーヤンに贈った

素敵な言葉が書かれています。

『限りなく広い宇宙、永遠に続く時間の中で、アンと同じ惑星、

同じ時代に生きることを喜びつつ…』

この言葉がとても印象的で

私のホームページにも少し文章を変えて使わせて頂きました。

人と人との出会いがいかに不思議で貴重な事なのか

考えさせられる言葉です。

 

人は何を祈るにしても、奇跡を祈るのである。
祈りは悉く(ことごとく)次のように要約される。
「偉大なる神よ、2の2倍が4にならないことをお聞き届けください」

~ツルゲーネフ~

 

孤高に生きる

週末の夕刻、たくさんの人で賑わう街で

感受性の結界を全解放し

辺りを見回していると

すごくプライベートなことを話してる人の声が

聞こえてきたりして

それぞれの人生の断片が感じられます。

思わず耳を傾けて『 へ~そうなんだ… 』と色々想像してしまったり

穏やかな幸せ…

刹那な喜び…

深い悲しみさえも…

 

傍観者にとっては、陽気と思える語らいの中にもひっそりと佇む悲しみだったり

淀んで流れていかない悲しみの中にもささやかな幸せが潜んでいるのを

感じることもあります。

こういう色々なものが一つになった雑然とした喧騒の中で

一人孤独になって物思いにふける瞬間も、「善きかな…」なんて

考えていました。

 

三木清も人生論ノートの中で

「孤独は山にはなく、街にある。

一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の 【間】 にある」と述べていましたが

都会は孤独だなぁと感じます・・・

都会には沢山の人があふれているというのに、

その中を一人歩く時、強く孤独を感じたりするのです。

SNSで簡単に他人と繋がれたり、一見結びつきも強化されているようで

その実、今ほど人と人とが遮断された時代もないらしい。

 

 

さてさて、今月は私の誕生月・・・

今日はみんなの予定を合わせて、焼肉を食べに参りました。

この年になると誕生日がうれしいわけでもないのですが、

家族で出かける機会もめっきり減りましたし

わざわざ都内まで食事に行くのを嫌がる次男君を連れだす格好の理由とはなります。

本当はイタリアンが食べたかったのだけれど

次男君から「肉っ!!」とリクエストされましたので

恵比寿ガーデンプレイスの焼き肉屋さんへ・・・

 

食事の合間、

眼下に広がる光の海を眺めながら、自分の人生を考えてみたりしておりました。

 

 

天から与えられたこの機会を前にして

この先どんな選択をして

生きがいや人生の意義との繋がりを持って

日々それを実践していくのか…

良いも悪いも全て受け入れ

生きた時間を過ごすよう心がけていきたい。

人とのつながりも(最低限)大切にしながら

孤高という生き方を楽しめる自分でありたい。

 

 

~孤独な鳥の五つの条件~

一、 孤独な鳥は、高く高く飛ぶ

二、 孤独な鳥は、仲間を求めない,同類さえ求めない

三、 孤独な鳥は、嘴 (くちばし)を天空に向ける

四、 孤独な鳥は、決まった色をもたない

五、 孤独な鳥は、しずかに歌う

~サン・ファン・デ・ラ・クルス~

曖昧さ

今までの人生で、自分の理解や許容範囲を

超える事態に直面した時

責め立てる対象を無理にでも作り上げ

そこに向けて不満や憤りをぶつけて

発散させようとしてしまったことは

ないでしょうか・・・

なぜこんな事になったのか…

もしや誰かの陰謀なんじゃないか…(苦笑)

それが全く根拠のない、ナンセンスなことだとわかっていても

その中に何とか因果関係を見つけ出し、自分を納得させる理由が欲しいのです。

じゃないと、精神衛生上耐えられませんから。

物事は『白か黒か』というように、単純明解に原因を究明できるものでもなく

毎日の生活や人生などほとんどのことは、些細な出来事の積み重ねであっても

原因に対して予測できる結果も一つではないので

その因果関係はグレーな領域であるように思います。

でも人間の脳は難しく考える事を嫌いますから、

どうしても黒か白かの二者択一論に走りたがる傾向があるのかもしれませんね。

一生を通じて私達のカルマは、

それぞれの試練に耐え切れないものにはならないよう

手加減されている(らしい)ので、遭遇する出来事はそれを通して学ぶ、

あるいは、進化向上する機会なのだと捉えたほうが

納得しやすいかもしれません。

人生の途中で降りかかる災難は、それにどう向き合っていくのかという

自分の態度にこそ意味があって、出来事それ自体に深く意味を求めていっても

納得のいく答えは出てこないことの方が多いようにも思います。

中には、前世で悪い行いをしたから、今その報いがきていると霊能力者に言われ

その苦しみに耐えることこそがカルマの解消法だとして

自分自身を納得させている方もいらっしゃるかもれませんが。

けれど、大震災の時などに耳にする、

近所の高齢者を背負って避難する人もいれば

火事場泥棒まがいの行動をする人もいるように

どちらを選択するのかは自分であり、

前向きな力も否定的な力も、全て自分自身から発せられるものです。

何が自分の心に否定的な影響を及ぼすのか、向き合ってみることも大切です。

自分にとって都合のいいことばかり主張せず

(後でとんでもないしっぺ返しに遭遇することもありますから…)

謙虚な態度を心がけることが、大切なのかもしれませんね。

冷静に考えれば、『私』の都合がいつも

宇宙の摂理に適っているとは、とても言えそうにありません…

 

次男君ネタ・・

(まさか自分がここまでネタにされているとは夢にも思っていないだろう)

次男君は大学生になったはずなのに、

いまだに自分の下着(トランクス)と父親の下着の区別ができておりません。

先日もリビングのソファーに寝ていたら、父親に「パンツ見せろ!」と怒鳴られ

するするとズボンを降ろした次男君・・・

案の定父親の「おニュー」のトランクスをしれっとはいておりました。

さすがに我慢の限界を超えてしまった主人

次男君のトランクス全てに太字のマッキーペンで名前を書き書きしました。

しかも全部ひらがなで・・・

 

幼稚園生か…💧

 

相変わらず学習能力のない次男君だ。

 

 

 

本当に人を愛するということは

その人が一人でいても生きていけるようにしてあげることです

~三浦綾子~